覆面歌手のルーツをさぐる その2「ミス・コロムビア」

ビクターの金色仮面がヒットしたその2年後、ライバルのコロムビア・レコードも覆面歌手を世に送り出してくる。それが1933年に『浮き草の唄』でデビューしたミス・コロムビアである。

ミス・コロムビアは本名を松原操といい、1911年、北海道小樽市に生まれた。奇しくも金色仮面と同じ土地から第二の覆面歌手も生まれたわけで、覆面歌手なんて日本全国でもそんなにはいないことを考えると、小樽というのはかなり覆面指数の高い土地だといえるだろう。

同年に松竹映画『十九の春』の主題歌を大ヒットさせると、以後、ミス・コロムビアは『並木の雨』『秋の銀座』『月のキャムプ』『あの日あの時』などヒットを連発していく。が、その一方で、本名の松原操としても『流浪の民』などの声楽曲をリリースしていた。

世間では“美貌と美声を兼ね備え”た歌手だと評判になったというが、覆面してるのになんで美人だとわかったのかは謎。火曜サスペンスの「首なし美人 殺人事件」みたいなもんだろうか。まあ実際のところは松原操名義と並行して活動していたわけだから、同一人物なのは当時からバレバレだったのかもしれない。

 

金色仮面と同様、ほとんど覆面写真が残っていないミス・コロムビアだが、当時の歌詞カードでようやく確認することができた。ただし、マスク的な覆面ではなく、単なる目隠しでしかないのは、覆面マニア的には残念なところ……いや、でも、これはこれでいいものがあるね。

1938年には、松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』を霧島昇とデュエットして80万枚も売り上げた。この数字は、当時としては桁外れの大ヒットといえるだろう。これが縁となり、後に松原操と霧島昇は結婚している。結婚後もミス・コロムビアとしての活動は続けていたが、やがて戦局が厳しくなり、内務省からカタカナの芸名を禁じるとの通達が下され、松原はミス・コロムビアとしての活動を終えることとなった。

1948年、夫の霧島昇と『三百六十五夜』をレコーディングしたのを最後に松原は歌手を引退。1984年6月19日、胆石病にて逝去した。