レコードコレクター・江川光さんの思い出 前編

おれは同年代の普通の人よりもかなり手広く、オールジャンルの音楽を聴く方だろうと思うが、いちばん好きで、いちばん長時間聴いているのは、いわゆるパンクと呼ばれるジャンルだ。これは誰に影響を受けたわけでもなくて、純粋に自分の魂の衝動として、聴かずにはおれないから聴いている。まあ、そのことは今回の話には関係ないのでおいておこう。

それ以外の音楽を楽しむようになった背景には、高護、近田春夫本秀康という3人から受けた影響がじつは大きくて、不良の音楽は高さんから、歌謡曲は近田さんから、苦手だったビートルズに興味を持つようになったのは本さんからの影響だ。でも、実はいちばん影響を受けたのは、世界一のホリーズ・コレクターとして知る人ぞ知る「江川光」さんなんだな。

江川さんと出会ったのは、おれがフリーライターを始めたばかりの頃だから、おそらく1986年ぐらいだろう。ということはおれは25歳か。江川さんの歳は覚えていないけれど、おれよりちょっと年上だった。たぶん30歳になるかならないかぐらいだったろうと思う。

当時、葛飾区の某所に出来たばかりの中古レコード屋があって、そこに通っているうちに常連同士ということで知り合った。その店は開店間もないこともあって、レコードコレクターの間でもまったく無名だったから、平日の昼間に行っても客は誰もいない。でも、フリーライターを始めたばかりでまったく仕事のないおれと、音楽関係の会社をやめたばかりで無職だった江川さんは、平日の昼間っから店に入り浸っていて、しょっちゅう鉢合わせしていたのだ。

何がきっかけで話すようになったのかは覚えてない。江川さんの収集対象は洋楽ポップスだし、おれはパンクと歌謡曲だったからね。でも、江川さんは歌謡曲もめちゃめちゃ詳しかったから、おれの買い物を見て「いいの掘ったね」とか、そんな感じで話しかけてきたような覚えがある。

江戸川をはさんで、江川さんの家は東京側、おれの家は千葉側だった。そんなに近いわけじゃないけど、東京でレコ掘りをした帰り道でもあるので、一度だけ誘われるままにお宅へお邪魔したことがある。コレクターの中には、自分のコレクションを秘匿したがる人も多いけど、江川さんはほとんどオープンな人だったから、知り合ってから度々「うちにレコード見においでよ〜」って言われていた。「聴きにおいで」じゃなくて「見においで」ってのがコレクターの会話だよな、といまにして思う。

家を訪ねてみて、とにかく驚いたなあ。ご両親と一緒に立派な一軒家に住んでいたんだけど、玄関のドアを開けたらもうそこにレコード棚があった。応接室にもそこら中にレコードがあった。ご自身の部屋は足の踏み場もなかった。まあ、こういうのは江川さんに限った話ではない。重度のコレクターはみんなそんなもんだ。中野D児さんとかね。ともかく、家中に詰め込まれたレコードのほとんどは江川さんが集めているブリティッシュ・ポップスだった。棚という棚がレコードだった。自分のレコードコレクションがカラーボックス2つ分くらいになってご満悦だったおれには、大変なカルチャーショックだった。あの光景はいまでも夢に見る。

コレクターって、自分の収穫を秘匿したがる人もいるけど、江川さんはその点ではまったくオープンな人だった。バンバン見せてくれるし、バンバン聴かせてくれる。ヒマさえあれば「マージービートの名曲ベスト30」なんてカセットを作ってプレゼントしてくれた。まるで中学生だ。

数あるブリティッシュ・ポップスのなかでも、とくに江川さんが集中してコレクトしていたのがホリーズだった。そのコンプ率はおそらく日本一。ところが、それほどのホリーズコレクターである江川光さんご自身に関する情報は、驚くほどネット上に見当たらない。それは彼が純粋にコレクターであり、集めたものについて記事を書くといったような“自分から何かを発信する”ことにはあまり興味がない人だったからだ。『レコードコレクターズ』誌でたまに「資料提供」として名前を見かけるぐらいだ。

江川さんのそうした姿勢は、たいへん尊敬に値する。おれみたいに「何かを集めること」と「それをまとめて発表すること」がイコールでつながっているのは、コレクターとしては純粋じゃない。収集の成果を本にして出すのはコレクターの夢だけど、純粋ではないんだ。江川さんは、見返りとか、名誉とか、そういったものとはまったく無縁で、純粋に収集を楽しんでいた。好きなものを集めるのが好きなだけの人だったのだ。(後編へ続く)

ベスト・オブ・ホリーズ(紙ジャケット仕様)

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バタフライ・プラス(紙ジャケット仕様)

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