松葉杖という名のピッケルで、登って登って40年

『松葉杖登山40年/横田貞雄著』(1974年/信濃路)である。

朝から飲めそうないい名前の版元さんから出ているこの本を、「珍スポーツ」などというカテゴリに入れてしまうのは大変に気が引けるが、とにかく素晴らしい本なので紹介したい。

本書の著者である横田貞雄は、大正三年、12歳の春に小学校を卒業した。貧農の家に生まれた貞雄は中学に上がることなく、そのまま長野県の醤油屋に小僧として住み込みの奉公に入る。

造り醤油屋での奉公仕事というのは苛酷だ。朝はだれよりも早く起きて雨戸をあけ、庭先から店の中、蔵の中までひと通り掃除をする。その後、店で売り出す味噌や醤油を、蔵にある大きな桶から店内の桶に移し替える。昼になれば、店番はもちろん、市内にある得意先への配達などの仕事が待っている。

奉公に入って3年ほど経ったある日。貞雄は右膝の裏側に小さい突起物があることに気がついた。これがすべての発端だ。しかし、奉公人という立場で医者にかからせてくれなどと言えるはずもない。また、幸か不幸か、この“おでき”は触れても押しても傷みをともなわなかったため、そのまま日々の仕事に精を出すことができた。

やがて、おできは小豆〜空豆〜うずらの卵〜アヒルの卵〜ゴムまり〜リンゴというように、次第に肥大化していった。そうなると膝を曲げ伸ばしするのにも困難がつきまとうようになる。仕事の苛酷さとも相まって、貞雄は醤油屋を脱走して実家に逃げ帰るが、醤油屋以上に過酷な畑仕事を手伝わされたり、新興宗教に連れて行かれて患部をなでまわされたり、徴兵検査でも相手にされなかったりと、散々な目に遭う。

結局、おできがスイカほどの大きさになった段階で、もうマトモな生活は不可能となり、医者にかかることを決意する。幸いにして、学用患者(研究対象になる代わりに入院や手術の費用一切を負担してもらえる)として扱っわれることになったので、家計を心配せずに済んだ。しかし、ときすでに遅く、貞雄は右足の膝から下を切り落とすことになる。22歳の5月のことだった。

片足の切断なんて、本人にとってはかなり絶望的な出来事だと思うのだが、著者は本書の中で、手術中にちらっと見えた切断面を「魚市場でマグロの胴切りにされたのを見た感じ」など、妙に淡々と描写しているのがおかしい。まあ、40年以上も前の出来事の述懐だから、客観的に語ることにも慣れてしまっているのだろう。

貞雄の病気は「単発性ショ*1骨軟骨種」というもので、肉食人種、つまり西洋人によくある病気だという。

「ところがあいにく私は小学校卒業までに肉は二切れしか食べたことがない。今の人には不思議がられるが、当時長野市内で肉屋といっても横町の鈴木と千歳町の牛見の二軒しか知らなかったくらいである。小学校五年の十一月十九日宵エビスの晩、父親西宮神社参詣の帰りに岩石町の飲食店で食べた、肉うどんの中に入っていたのが、唯一の肉だった」

なんだか泣けてくる……。どうせひどい病気に罹らねばならないのなら、せめて肉を腹一杯食ってからにしてあげたいじゃないか。しかし、そんな読者の勝手な同情心とは無関係に、貞雄の心は強く逞しい。ひと月以上の入院生活を終えると元気に退院。苦しい歩行訓練を経たのちに、第二の人生を歩み出したのだ。それが、松葉杖登山である。

子供の頃から山登りが好きだった貞雄──横田氏は、長野新聞社で植字工の仕事をしながら、登山への挑戦を開始する。協力者は10歳ほど年の離れた弟と、職場の同僚で登山歴のある友人らだった。平地の歩行でさえ困難な身体でありながら、なぜ登山などを? と第三者は思うだろう。けれど、横田氏にしてみれば、足を切り落としたことで「約六年間も病気の重い足をかかえていた苦闘のトンネルを抜け出した」のだ。その開放感が彼を山へ向かわせたのだろう。

この時代の登山ルックがどういうものだったのか、わたしは不勉強でわからない。だが、素材の新旧はあるにしても、現代とそう大きな違いがあるとも思えない。おそらく防寒用のズボンとヤッケ、足元は登山靴。もしかしたらゲートルでも巻いていたかもしれない。手にはピッケルを持っていただろう。ところが、横田氏の登山ルックはかなり異質だ。

だって、「浴衣」に「駒下駄」に「松葉杖」だよ!

松葉杖は仕方ないにしても、なんで浴衣なの!? なんで下駄なの!? 登山中にそんな格好の人とすれ違ったら、絶対に「でた!」って思うよね。「幽霊でたー!」って思うよね。

それはともかく、横田貞雄氏は地元の戸隠山を皮切りに、富士山、八甲田山谷川岳槍ヶ岳、白馬、木曽、雲仙……と、40年のあいだに50ヶ所以上もの名峰を制覇していった。その姿は、まさに山を彷徨う亡霊の如し、である。人間の生きる力って、計り知れないなあ。

*1:足偏に庶