父との戦い

年が明け、1月7日に父が亡くなった。享年84。

ずいぶん前に脳梗塞で倒れてから、とりあえず復活はしたものの、最近はかなり恍惚の人状態だったので、そろそろ秒読みだと覚悟はしていた。昼間、ひとりで風呂に入って湯船に浸かった途端に心不全を起こし、そのままポックリ、ということらしい。16日(金)に通夜、17日(土)に葬儀を済ませた。両親の親戚だけを呼んで、あくまでも控え目に。

亡くなったのが7日(水)だから、最初はその週末が葬儀の日程になるだろうと思った。おれは1月14日から16日まで岡山出張を予定していたので、9日(金)か10日(土)に葬儀を済ませれば、出張には行けるはず。予約したホテルもレンタカーもキャンセルせずに済むだろう。

そう楽観していたら、どうも正月に人がたくさん死んだようで、地元の火葬場ではズラリと死人が焼かれるのを待っている状態だという。我が家の仏さんは早くても15日にならないと焼かれねえ、と言われてしまった。そうなると出張を取り止めにしないといけない。それだけは避けたかったので、あえて、さらに1日遅らせてもらって、10日も先の17日が葬儀となった次第だ。

父の死に、母と姉はショックを受けていたようだが、おれは親父が死んだことを知らされても、正直なんの感情もわかなかった。3年前に女房を失くしたとき、これより悲しいことはもうない、と思った。あるとすれば、娘にもしものことがあったときぐらいだろう。だから、冷たくなった親父の顔に触れても、焼き上がったお骨を見ても、涙は一滴も出なかった。

涙の枯れた理由は、親父が高齢だったから、あるいは女房の死を経て覚悟が出来ていたから、ということだけじゃない。

おれは子供の頃から親父のことが嫌いだった。それで反発ばかりしていた。親父は政治家や市会議員、会社経営者など、いわゆる権力者を憎んでいた。左翼思想の持ち主、というわけではない。なぜその人物に腹を立てているのか? と訊ねてみても、まともな答えが返ってきたためしがない。親父は10代で福島から出てきて、定年するまでずっと人に雇われてきたせいか、成功者に対する劣等感が強かったのだ。

それでも、政治家に腹を立てるぐらいなら、珍しくはない。情けない話だが、うちの親父がとくに嫌っていたのは芸能人だった。

夕飯時、テレビを点けて派手に着飾った芸能人が映ると、画面に向かって悪態をついた。「こんな奴、死んじまえばいいんだ」とまで言うこともあった。人に雇われ続け、出世とも無縁で、とにかく与えられた仕事を真面目にこなすだけで、それ以外の愉しみを持たなかった親父のような人からすると、ラクして遊んで大金を稼いでいる(ように見える)芸能人が、妬ましくて仕方なかったのだろう。芸能界がそんなに甘い世界じゃないことぐらい、子供のおれにだってわかるのに。

親父は酒と煙草をやるぐらいで、ギャンブルも女遊びもしなかった。少しだけ磯釣りに夢中になっていた時期もあるが、それも定年する前にやめてしまった。亡くなったあとに遺品を整理したが、私物らしい私物は何も残っていなかった。おもしろそうなことには片っ端から首を突っ込み、身の回りには本やビデオやレコードが溢れ返っているおれとは、まったく正反対の人間だ。

親父が嫌い、というより、軽蔑していたと表現するほうが正確だろう。親父を見るたび、「こうはなりたくない」と思って生きてきた。おれがいろんな趣味に手を出すのは、生まれながらの好奇心もあるのだろうけれど、根っ子のところには親父への反発があるはずだ。

いまも家族で住んでいる松戸の家は、親父が無駄遣いを一切しない人だったから建てることができた。そのことと、おれをこの世に送り出してくれたことには感謝している。だが、それ以外の部分は本当に嫌だった。おれは20代後半から40歳になるまで松戸の家を出ていたが、それは親から自立するというよりも、単に親父から離れたかったのだ。

一緒に暮らしていると、親父と似ている自分に気づかされてしまうのが嫌だった。それを認めたくなかった。

ライターとしてデビューした頃、同業の仲間はみんな立派な大学を出ていて、高卒*1のおれは肩身が狭かった。編集部で雑談をしていて、学生時代の話になると身を小さくしていた。同期のライターが新連載を始めると、焦りの気持ちが渦巻いた。友人たちが名前を連ねている雑誌に自分が載っていないと、嫉妬の火が燃え上がった。「おれに声をかけないなんて、あんな雑誌ダメだよ」。誰に言うわけでもないが、心の底でそう思うことが何度もあった。

そのたびに親父の血が自分の中に流れているのを感じて、恐ろしくなった。

ある友人の親父さんは、現役時代に演劇方面で随分と立派な仕事をされた方だったという。謙遜しながらも誇らしげに親父さんの話をするときの彼の表情はとてもいいものだったが、おれには手の届かないものだ。ある友人の親父さんは、音楽方面でたくさんのファンから親しまれた人だった。亡くなったときの彼の落胆は見ていて痛ましいほどだったが、それほどに喪失の悲しみを感じさせてくれる親父がいることに、おれは激しく嫉妬した。

なぜ、うちの親父はそうじゃないんだろう。心から尊敬できる親父の下に生まれたかった。小さい頃から、何度も何度もそんなことを考えた。そして皮肉なことに、そう考える自分の気持ちは、間違いなく当の親父から受け継いだものなのだ。

おれは一生この呪いから逃れられないのか。これまでの人生、少なくとも物書きになってからの30年間は、他人を羨む気持ちと、それを打ち消そうとする気持ちとの戦いだった。それはすなわち、父との戦いでもあった。

親父が死んで、その呪いから解放されたとは思わない。ただ、こうしてここに書きつけているように、ある程度、自分を客観的に見られるようになったのが救いではある。

父への別れの言葉はここに書かないが、願わくば、今後は自分自身が娘から尊敬される父でいられように、他人を羨やんだり、妬んだり、蔑んだりしない生き方をしていこう。

*1:製図の専門学校を出ているが、1年制なので資格的には短大卒にもならない。