イクときは一緒だよ

2月7日、阿佐ヶ谷ロフトAにて「珍書ビブリオバトル」なるイベントが開催された。

ビブリオバトルとは「知的書評合戦」とも呼ばれるゲームで、数人の出場者が自らセレクトした本を携えて順番に登壇し、5分の持ち時間内でその本を紹介する。原則として、スライドやレジュメなど、事前に資料を用意してはいけない。出場者のトークによるアピールだけでその本の魅力を伝えるというわけだ。

その後、お客さんとの質疑応答を交わし、次の出場者にバトンタッチする。こうして、すべての出場者が本のアピールを終えたら、どの本がいちばん読みたくなったか、全員の挙手で決定する。「珍書ビブリオバトル」とは、読んで字の如く、その珍書編である。

第1部は、一般からの出場者4名が戦う。続いて第2部は、第1部での勝者に珍書四天王を加えた5名が戦って、そこから総合チャンピオンを決定する。

さらりと「珍書四天王」なんて書いたが、社会評論社でヘンな本ばっかり作ってる珍書プロデューサーのハマザキカク氏、洋書の珍書(略して洋チン)を専門に販売する千駄木どどいつ文庫の店主イトー氏、円周率が延々と100万桁印刷されているだけの本で有名な暗黒通信団のひだまい氏、そして人喰い人種と飲尿療法の本の品揃えなら日本一というマニタ書房店主とみさわ昭仁の4人のことだ。おれも入ってるのかー。

で、結論から言うと、わたくしが優勝してしまった。自分がいちばん驚いている。


▲優勝賞品の人参焼酎『珍』。お酒をもらってとてもうれしそうなおれ(写真提供:Tokyo Biblio)。

はっきり言って、勝てるなんてこれっぽっちも思っていなかった。なにしろ相手が手強すぎる。トークもあんまり得意じゃない。なによりアドリブが苦手だ。どうすりゃいいの。とりあえず笑ってもらおう。勝ち負けのことは考えず、ただお客さんにウケさえすればそれでいいや。そう考えてエントリーする本を決めた。このあいだ読んでゲラゲラ笑ったこの本を──。


■『よーいドン! スターター30年/佐々木吉蔵』(1966年/報知新聞社

特殊な職業、特殊な立場の人が書いた伝記が好きだ。牛を育てて80年の人とか、山口組三代目田岡組長のお嬢さんとか、ニット界の貴公子とか……。これらの本を読むと、普通に暮らしているだけでは絶対に知るはずのないことを知ることができ、おおいに好奇心が満たされる。

ある日の古書市で見かけたこの本も、そのタイトルを見て心奪われた。『よーいドン! スターター30年』。すなわち、陸上競技のスタートラインでピストルを空に向け、ドンと号砲を鳴らす役目。あれを30年もやってきた人の自伝なのだ。どう考えてもおもしろいに決まってる!

著者の佐々木吉蔵は大正元年秋田県北部の片田舎で生まれた。小さい頃から虚弱体質だったが、父の勧めで運動に目を向けるようになり、やがて陸上競技を始めるようになった。

吉蔵は通学のために毎日駅まで走り、冬も深い雪道を走った。中学を卒業後は花岡鉱山に就職したが、そこでも坑内に通じている150段ある階段を毎日駆け上がり、駆け下りた。こうした生活は自然と吉蔵の足腰を強くしていった。

その甲斐あって、昭和4年の青年陸上競技明治神宮大会に出場すると、100メートル走で11秒1という記録を出す。翌日、吉蔵の名前は新聞の活字になった。

着実に実績を上げていった吉蔵は、昭和11年、ついにベルリンオリンピックへの出場権を勝ち取る。だが、そこで吉蔵はとてもショッキングな光景を見た。

自分は、いつものようにスターティングラインの手前に手をついているのに、他国の選手たちは石灰で引かれた白線の上に手を置いていたのだ。なかには、ピストルが鳴るのを待つ間にじわじわとラインより前へ指をせり出しているヤツもいる。これはいったいどうしたことか!

不信感を胸に抱いたまま走り出し、結果として2位でゴールすることはできたものの、この一件は吉蔵の心に深く刻まれた。それ以来、彼は走ることよりもスタート時の公平性に強いこだわりを持つようになり、選手生活を続けながらも、並行して審判員の活動に取り組むようになるのだった。

審判合図員、つまりスターターになった吉蔵は、最終的には陸上競技連盟の常務理事になり、審判部長にまで登り詰めた。スターターとしては最高の舞台、昭和39年の東京オリンピック「男子100メートル決勝」のスターターを務めたのも、この吉蔵なのだ。

本書の冒頭には、そのときの様子が吉蔵自身の筆で描写されている。これがまったくもって見事な文章なので、以下に引用してみよう。

「ヨーイ」
 そして八人の選手の動きを同時に見た。
 腰がゆっくり上がってゆく。一秒四たって八人のすべてがとまった。微動もしない。私は右手をいったん全部伸ばし、徐々に下げはじめた。人さし指が引き金にふれる。
 ──私はいつ撃ってもよいのだ
 なにかが私を誘惑した。
 ──しかし、待つのだ
 さらに十分の一秒が過ぎ、私の指は引き金にずるずると引きずられそうになった。もう少し待たなければ完全な出発はできない。
 ──もう少し……
 長かった二度目の十分の一秒。もうだめだった。私の脳髄に「撃て!」という指令が怒濤のように襲いかかった。そして私の指はこれ以上待てなかった。
(中略)
 台を降りた瞬間、体内から燃えるような熱気が生じ、私の体をあっという間に汗びっしょりにしてしまった

この筆致、まるで官能小説!

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