さらば宅八郎

2020年12月3日

 宅八郎の訃報を知った。ご家族の話ではどうやら8月に脳出血で倒れ、そのまま還らぬ人となったらしい。

 彼はミニコミ『東京おとなクラブ』のスタッフだった人で、本名を矢野守啓という。ぼくは同時期に刊行されていた歌謡曲ミニコミ『よい子の歌謡曲』のスタッフだった関係で、『東京おとなクラブ』の編集部にも出入りしていた。時期を考えると彼と知り合ったのは1985年くらいのはずだが、直接会って話をしたような記憶はない。

 やがてぼくはフリーライターになって、下北沢に仕事場用のアパートを借りた。ある日、仕事もなく部屋でゴロゴロしていたら、彼から電話がかかってきた。そのとき彼は「覚えてますか、矢野です」と言い、ぼくは少し考えたのち「ああ、おとなクラブの!」と言った記憶がある。ということはやはり一度は会っているのだろう。

 電話の要件は仕事の依頼だった。その頃の彼は『週刊SPA!』で仕事をしていて、まだ宅八郎にはなっていなかったはず。いまから30年以上も前の話だ。

 矢野くん曰く「今度SPA!で “おたく特集” をやるので、そこに珍レコードおたくとして出て欲しい」との依頼だった。ほとんど無名のフリーライターだったぼくは、メジャー雑誌に顔と名前が出せる機会を逃すまいと、二つ返事で承諾した。そのときに掲載された写真がこれ。

f:id:pontenna:20201204094823j:plain

週刊SPA! 1990年3月7日号「特集『おたく』が日本を動かす」より

 特集タイトル「『おたく』が日本を動かす」とあるように、この記事で矢野守啓はおたく評論家「宅八郎」として華々しくデビューする。いや華々しいかどうかはわからない。おたくのイメージを悪化させたので、人によっては憎々しいと感じたかもしれない。

 「宅八郎」として売り出した彼は、その風貌や言動の奇異さもあいまって、またたく間に時代の寵児となった。良くも悪くもその「仕事」に手を抜かない人間なので、いろいろとトラブルを起こしたし、毀誉褒貶もあったが、最後まで彼なりのスジは貫いていて、ぼくは嫌いになれなかった。近しい場所から出てきた仲間、という意識も少しはあった。

 だからといって、宅さんのあの過激な言動を正しいと思っていたわけではない。より正確に言うと、たとえば「週刊プレイボーイ」編集者である小峯隆生さんとの事件では、宅さんに対して小峯さんが「プレイボーイ軍団」の力を背後にチラつかせて恫喝してみせた、そのマチズモっぽさに嫌悪感を抱いた。だからその反動で宅さんにシンパシーを感じたのだろう。

 どちらかというと、趣味的な部分で言えばぼくは小峯さんのミリタリー趣味に共感を持っていたし、逆におたく的な感性を自分の中からは排除するよう努めていた。

 そういえば、ぼくが『スコラ』でファミコン攻略ページを書いていた頃のこと。連載ページの一部に「ファミコン野球帝国からの挑戦状」という囲み記事が載ったことがある。

f:id:pontenna:20201204112654j:plain

スコラ 1986年4月10日号より

 簡単に言うと、当時『月刊PLAYBOY』に掲載された「ファミコン野球日本一」という記事に対して、『スコラ』でのゲーム担当だった我々が「どちらが日本一か『ベースボール』(ファミコンソフト)で戦って決めようじゃないか」と挑戦状を叩きつけたのだ。これに対して、当の記事の主筆だった糸井重里氏は受けて立ち、かくして『月刊PLAYBOY』チームと『スコラ』チームで本当に対抗試合をすることになった。

 この挑戦状は、『スコラ』の担当編集がホンのお遊びで入れたもののように記憶している。ご存知のように、誰かと競ったり争ったりすることを好まない性格のぼくは、そのとき「挑戦状なんて嫌だなあ」と思ったが、学生時代に憧れていた糸井さんに会えるかもしれないと、微かな期待を抱いたりもした。

 試合は、神保町にあった集英社の会議室で行われた。雑誌対抗のファミコン試合なんて、ものすごく業界っぽい! と浮かれ気分でドアを開けたが、その場の空気は恐ろしくヒリヒリしていた。糸井さん、アシスタントの石井さん、『月刊PLAYBOY』の編集さんらがジロリとこちらを見る。当時、『ベースボール』に本気で取り組んでいた糸井さんはお遊び気分ではなく、自分に挑戦状を叩きつけてきた生意気な奴らを返り討ちにするべく、ぜってぇ殺すモードに突入していたのだ。

 で、なんで宅八郎と関係のないこんな話を書いているかというと、この試合の場に、噂を聞きつけた小峯さんが見物に来たからだ。ぼくが小峯さんと顔を合わせたのはそのとき一回きり。

 結局、我々は惨敗した。試合が終わって空気は殺伐としたままで、「記念写真を撮りましょう」みたいな雰囲気には全然ならず、「そっちが喧嘩売ってきて負けたんだから謝罪記事は出して当然だよね」と冷たく言われる始末。まったくカッコワルイったらありゃしない。

 この出来事は、宅八郎VS小峯隆生のバトルが勃発するより4年も前のことだけど、このときにも『週刊プレイボーイ』および『月刊PLAYBOY』周辺からマチズモの匂いが感じられたという話だ。

 先にも書いたように、ぼくは学生時代は糸井さんに憧れていたし、小峯さんの趣味にも共感していた。そんな人たちからこの試合をきっかけに全力で突っぱねられたような気がして、非常に複雑な気持ちで帰路についたことを覚えている。いまよりずっと若い頃の話だ。

 というわけで、そういうあれやこれやを清算する機会もないままに(清算する必要もないのかもしれないけれど)、宅さんはあの世へ旅立ってしまった。小峯さんのことを本当はどう思っていたのか、いつかちゃんと会って聞いてみたかったけど、叶わないまま終わってしまったな。あの世では変なコスプレして鬼を相手にバトルを挑んでいるかもしれない。そんなことはもういいから、どうぞ安らかに。