『藝人春秋2』と『藝人春秋3』

2021年03月18日

 文春文庫から刊行された水道橋博士の新刊『藝人春秋2』と『藝人春秋3』を読んだ。

 元は『週刊文春』に連載された人物評の形をとったエッセイである。2012年に刊行された単行本『藝人春秋』に続いて、その続編となる『藝人春秋2』が2017年に上下巻で刊行されたが、本書はこのたび文庫化されるに合わせて、その『上巻、下巻』のタイトルを『2巻、3巻』と改めたものだ。

 文庫でも1冊あたり420頁オーバーなので、決して薄い本ではない。それが2冊。しかも『藝人春秋』(すなわち1巻)を読んだときから、簡単には読み飛ばせない内容であるのを知っていたので、こりゃ手強いぞと覚悟していたが、2冊同時に購入し、ひとたびページを開いたが最後、一気に読み終えてしまった。それくらい夢中にさせる力があった。

 

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「愛」と「死」

 博士は、自らを「芸能界に潜入したルポライター」と標榜するだけあって、取り上げる人物の下調べは周到だ。それを切り裂く筆は鋭く、洒落や伏線や見立てなど、文章のあらゆるところに仕掛けを施している。2巻の解説を担当したダースレイダーは、こうした博士の文体を「韻を踏んでいる」と表現した。これは浅草キッドの漫才にも通底する手法だ。

 ご存知のように、ぼくは水道橋博士が編集長を務めるメールマガジン『メルマ旬報』の執筆陣の一人でもある。ひとつ前に連載していた『レコード越しの戦後史』は、連載終了後に単行本として刊行されたが、この連載が決まる前、どのようなタイトルにするかで悩んでいた時期がある。

 その時代ごとに発売された流行歌を振り返ることで日本の戦後史を語るという企画であるから、着想段階では『流行歌で振り返る日本戦後史』とか、『歌謡曲と戦後の日本人』とか、あるいは書名には数字を入れるといいという意見を踏まえて『99枚のレコードで振り返る戦後歌謡史』とか、そんなことを考えていた。

 だが、連載する媒体が水道橋博士の『メルマ旬報』に決まったときに、他の筆者たちの連載タイトルを見渡して、ああそうかと思った。博士は芸人だから、ついダジャレを考える。ラッパー的に言えば韻を踏む。

 硬派なノンフォクションの世界では、ダジャレなどレトリックの技法としては一段低く見られるものかもしれないが、この場所はそれが許される。むしろ積極的にやっていい。元より、ぼくはダジャレが大好きだ。それであれこれ頭をひねった末に、『レコード越しの戦後史(レコードごしの戦ごし)』というタイトルを思いついた。これは、いま振り返ってもいいタイトルだったと思う。『メルマ旬報』に参加しなければ、きっと思いつけなかった。

 話が大きく逸れた。

 本書はタイトルが『藝人春秋』といように、元々は文壇スキャンダル雑誌だった『文藝春秋』のパロディである。つまり『藝人春秋』は、様々な芸人たちの生態をおもしろおかしくレポートするのが当初の動機だったのだと思う。実際、『藝人春秋』では、そのまんま東石倉三郎古舘伊知郎、三又又三、テリー伊藤爆笑問題……と、芸人や芸能界で活動する奇異なる人々の生態を追いかけている。

 ところが、今回の2巻、3巻では、少しばかり様相が変わってくる。1巻では「芸能界に潜入したルポライター」という立場であったものが、2巻以降では芸能界にとどまらず、この社会全体に潜む“悪”を暴く「ジェームズ・ボンドのごとき諜報員」という体で、書き進められているからだ。

 そうなると、登場する人選も変わってくる。2巻のトップバッターは大阪維新の会を立ち上げた橋下徹だ。2万パーセント国政への出馬はないと言い切った弁護士の欺瞞を、博士は自身の自爆的な降板ギャグを絡めて追求する。

 その後、タモリリリー・フランキー、三又又三(どんだけ好きなんだ)、デーブ・スペクター、江頭2:50など芸人や芸能人を中心にして話が進んでいくが、3巻に突入するとその空気感はサッと変わる。

 最初こそ武井壮と寺門ジモンのクソどうでもいいじゃれ合いが綴られるが、気がつけば博士のペン(剣)は元都知事である猪瀬直樹の首筋に迫り、医療界の風雲児・徳田虎雄の眼球をえぐる。そして、やしきたかじんを経て、その背後にいるであろう黒幕の存在にまで迫る。芸能界の中にいて、このことに触れるのはかなりのリスクというか、相当な覚悟がいると思うが、博士の筆に迷いはない。

 その決意が、3巻のサブタイトルにもなっている「死ぬのは奴らだ」だ。

 博士がたびたび取り上げる橋下徹も、石原慎太郎も、やしきたかじんも、ぼくはことごとく苦手な存在で、顔も見るだけでも嫌な気持ちになってしまうのだが、悔しいことに彼らの章に限って抜群におもしろいのだ。なんとも皮肉なことですよ。

 3巻の最後。海老名家の次女、泰葉がある落語の大師匠(金髪豚野郎じゃないですよ)とデートをする場面がある。博士とサンキュータツオも同席する。そこで語られるエピソードがまた素晴らしい。その大師匠、あらゆる落語家の中でぼくがもっとも苦手な人物だから、ああイヤだイヤだと思いながら読んでいたのだが、泰葉の口から「……いいよ、師匠、死んじゃえ!」のくだりが出てきた瞬間はさすがに胸が詰まった。ものを作ってきた人、何かを表現してきた人の、極限の姿を見せられた気がした。

 その愚かな行動を笑い飛ばしたり、欺瞞に満ちた振る舞いを舌鋒鋭く追求したり、容赦のない800ページ超ではある。けれど、その根底にはやはり顔と名前を晒して戦っている人間への愛が感じられる。そういう意味で、この本に書かれていることはとても誠実だ。対象への優しさに溢れている。愛情すら感じられる。

 そして、その愛はぼくにはないものだ。