00 少し長いまえがき

『マニタ書房閉店日記』とは、2012年の10月から2019年の4月まで、およそ7年弱の間だけ神保町に存在した「特殊古書店マニタ書房」という風変わりな古本屋の記録である。

 ぼくは2011年の10月に、かねてより闘病中だった妻に先立たれた。後に残されたのは、小学5年生の一人娘と、いくばくかの生命保険。それを開業資金として始めたのが、マニタ書房だ。

 フリーライターという本業はあったが、折からの出版不況で雑誌というものが激減し、仕事は減るばかり。妻の保険金で当分は食いつないでいくこともできるが、まだしばらくは子育てをしなければいけないし、将来的に進学するであろう娘の学費も確保しておかなければならない。それで、古本屋の開業を思いついた。

 フリーライターと古本屋。どちらの商売も「将来性が希薄」という点では大差ない気もするが、そのときに自分にできること、自分がやりたいことを考えたら、それしかないという結論に達した。それに、古本屋だったらフリーライターを辞めなくとも兼業できる。むしろ、たくさんの本に触れること、たくさんの本好きと出会えることは、ライターの仕事にもプラスになる点は多いだろう。

 元々、フリーライターなんて職業を選択するくらいなので、子供の頃から本は好きだった。いや、ここは誤解されそうなので、もう少し説明が必要だ。

 ぼくは「本」が好きだったのであって、「読書」が好きだったわけではない。そう、子供の頃のぼくは、あくまでも書物というアイテムが好きなのであって、あまり本を読む子ではなかった。むしろ読書は苦手で、国語の授業で読書感想文なんて宿題を出されると、絶望感に襲われたものだ。

 でも、本そのものは好きだった。書物というアイテムが好きなのだ。漫画を読むのは普通に大好きだったから、その延長に「本」がある。本がたくさん並んでいる光景が好きだった。だから、買いもしないのに本屋にはよく遊びに行っていた。漫画のコーナーはもちろんのこと、読みもしないのに小説のコーナーもうろついて、いろんな本を眺めていた。それだけでどんどん時間は経っていく。

 なぜ、それほどまでに本が好きになったのか。それには、まだ小学校へ上がるより前に見た、遠い記憶にある三つの本棚が影響している。

 一つめは、「社長の息子の本棚」。

 うちの母は洋裁をする人で、福島の女学校を卒業後に上京し、両国にあった縫製屋に就職する。そこで働くうち、近所の運送会社に勤めるトラック運転手が同郷だということで見合いをして結婚。その運送会社の社長宅に隣接している木造の平家を新居にする。

 やがてぼくが生まれるわけだが、自宅は狭いので、いつも社長宅に行って遊んでいた。社長の奥様とうちの両親は遠いながらも親戚関係で遠慮がいらなかったということもあるし、少し年は離れているけどお兄さんお姉さん(社長の子供たち)が遊んでくれるので、自分の家よりも楽しかったのだ。

 そのお兄さんたちの部屋には、壁一面の大きな本棚があった。それが最初の本棚体験だ。中にどんな本が詰まっていたのかは覚えていないが、ただ「すげー! 本がいっぱいある!」と驚いたことをよく覚えている。

 二つめは、「シライさんの本棚」。

 母が勤める縫製屋は「シライさん」と呼ばれていた。おそらく社長の名前が白井とでも言うのだろう。まだ幼稚園に行く前のぼくを、母はよくシライさんに連れて行った。高度成長期、共働きする女性従業員たちのために、職場が託児所的な役割も果たしてくれていたのだ。

 母が布地の裁断などをしている間、ぼくは別室で絵本や漫画を読んで過ごす。シライさんにはやはり大きな本棚があって、様々な本が詰まっていた。連れてこられた子供たちが退屈しないために用意されていたのだろう。これもまた、大きな本棚をありがたいものと感じるようになった初期の記憶だ。

 三つめは、「みっこんつぁの本棚」。

 みっこんつぁというのは、福島の母の実家の近くに住むおじさんで、名前をミツオ(表記は知らない)という。「おじさん」は福島の訛りで「おんつぁま」だ。つまり「ミツオおんつぁま」がさらに訛って「みっこんつぁ」となるわけだ。

 そのみっこんつぁの家に行くと、やはりものすごく大きな本棚があって、漫画がびっしり詰まっていた。おんつぁまの大学生の息子さんが集めていたものだ。どれでも自由に読んでよいと言われていたので、夏休みなど母が帰省するときはよくおんつぁまのところに連れていってもらった。本棚好きで、かつ漫画好きになったのは、ここの本棚の影響が大きい。

 中学生になったあたりから、ぼくは漫画の蒐集に手を出す。最初は『トイレット博士』が大好きで、ギャグ系のコミックスを買うくらいだったが、同級生の小島くんに借りた『ワイルド7』に衝撃を受けたのをきっかけに、望月三起也作品を本格的に集め始める。

 両国で借家住まいをしていたときは、姉と共有の勉強部屋で、狭い家の生活スペースに漫画を溜め込んでいて迷惑がられた。しかし、高校に入学するとき、父は千葉県の松戸市に二階建ての一軒家を新築する。家が一気に広くなるのだ。それはすなわち自分の部屋が持てるということでもある。

 自分だけの部屋ができ、始めのうちは既成品の本棚やカラーボックスを並べて、そこに集めた漫画を収納していたが、いつかは壁一面の本棚を作りたいと夢見るようになった。

 そして高校を卒業し、製図の専門学校に通っていたとき、ついにそれを実行する。拙著『無限の本棚』(ちくま文庫)にそのときのことを書いているので、引用する。

 

「壁面本棚が作りたい!」

 蔵書家なら誰もが夢見る、壁一面を覆いつくす本棚が、欲しくてたまらなくなってしまった。

 思い込むと止まらなくなるのがぼくの悪い癖だ。このときぼくは機械製図の専門学校に通っていたので、図面を引くことなど朝メシ前だった。巻き尺で壁面の寸法を測り、そこを埋め尽くすような本棚の設計図を作成した。上のほうには文庫を並べ、中段には漫画のコミックスを並べる。最下段にはLPレコードや写真集がぴったり収納できるようにする。最下段は奥行きも深くして、本棚の補強と転倒防止を兼ねることも忘れない。

 図面が完成したら、必要なパーツ数を割り出し、ホームセンターへ材料を買い出しにいく。木材を切り出して作るのは作業難度が高いと予想できたから、ユニット式の棚材を利用することにした。もちろん設計段階でその判断をしていたので、市販の棚材に合わせた寸法配分で棚を分割してある。材料費は、時給の高い割烹料理屋でアルバイトをすることで賄った。

 購入した材料が届いたら、さっそく組み立てる。といっても、ユニット家具なので図面通りに棚材を組み合わせて、ブリキ製のブラケットをはめ込んで釘で留めていくだけだ。完成までに二日もかからなかった。

 

 気持ちよかったねえ~、壁面本棚。壁一面を覆い尽くす本棚に自分の好きなものだけが詰まっている。それを眺めているだけで、幸せな感情で心が満たされた。自分の本棚が好き過ぎて、意味もなく本棚に登ってみたりもした。

 そうやって、しばらくは幸せな日々が続いたのだが、数年後に本棚が満杯になった頃、その重みで家が歪み始め、親父に怒鳴られて本棚は解体せざるを得なくなる。一箇所に集中して本を置くと本棚はおろか、家さえも壊れかねないので、また本を分散して収納することになった。鉄骨の入っていない木造家屋では仕方のないことだ。

 自宅では、そうやって騙し騙し本を集めていたが、その後、フリーライターになって都内に仕事場を借りた際には、スチール製の本棚を何台も導入して、壁面本棚を実現していった。仕事のために必要なのだという大義名分もあるが、本心は子供の頃に見た三つの本棚を再現したいという気持ちの方が強かった。

 さて、そんな本棚好きのぼくが、ついに古本屋を始めるのだ。壁面どころか、部屋中を本棚にしていいのだ。本棚に囲まれた生活。想像するだけで最高じゃないか。古本屋なら、本棚がいっぱいになってしまうことを気にしなくていい。売れるそばから本を補充しなければならないから、いくらでも本が買える。買った本を読むとか、そんなことを考えなくていい。買って並べて、買って並べて、買って並べて、を繰り返す生活。まさしく「無限の本棚」だ。

 そんなわけで、ぼくは2012年の3月に古本屋の開業を決意するのである。もしろん、そのときは7年後に閉店することなど考えてもいないわけで、理想の生活(老後)が手に入ることに胸踊らせる日々が始まった。そこから、家庭の事情で閉店を余儀なくされる2019年の5月までの記録を、これから「マニタ書房閉店日記」として、ゆるゆると書き連ねていくのだ──。